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ポケットモンスターの歴史2

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【ポケットモンスター発売の風景】


紆余曲折の末、なんとか発売されたポケットモンスターでしたが、その前評判はもともと高いものではありませんでした。

なにせ既にセガサターンやプレイステーションが発売されており、さらにニンテンドウ64もリリースが迫っている時代です。表現はとっくに2Dから3Dに移っていて、メディアが次世代ゲーム機を熱狂的に取り上げるなか、発売から7年もたっているゲームボーイはほとんど時代遅れとみなされるものでした。

「どうして今頃ゲームボーイで?」と考えた人も少なからずいたわけですが、じつは任天堂内でもポケットモンスターは期待されていませんでした。この時点で、国内のゲームボーイ発売予定ソフトは残り数本のみ。任天堂も次世代ゲーム機に力を注いでいて、96年のスペースワールドでは、ポケモンの紹介をするはずの司会者がニンテンドウ64に取られてしまうという出来事もありました。ポケモンの出荷本数が赤緑あわせて23万本と制限されていたことも、期待の低さを如実に表しています。

とはいっても、もちろん関係者は売れるだろうと思っていました。そこで、石原氏の率いる「クリーチャーズ」がポケットモンスターのプロデュースを買ってでることになります。当時の任天堂はポケモンの宣伝を積極的にする気がなかったので、石原氏をはじめとする関係者が複数の出版社にタイアップを打診してまわったのです。

ほとんどの出版社がポケモンに興味をもたず、タイアップを断ってしまうのですが、唯一オーケーをだしたのが「小学館」でした。以前、石原氏がいた株式会社エイプで、小学館からゲームの「公式ガイドブック」を発刊していたことが大きく働いたのです。

当時のコロコロコミック副編集長・久保雅一氏がこの企画をもちかえり、ポケモン発売の翌日からタイアップの漫画が開始されることになります。ただし、最初の掲載は本誌ではなく「別冊コロコロ」でした。久保氏がイベントで見たゲームボーイの展示が、あまりにも寂しいものだったので、小学館内でもポケモンを強く推すことができなかったのです。

誰が見ても「ゲームボーイはもう終わった」と思うような状況でしたが、石原氏は「まだゲームボーイは死んでいない」と確信していました。その理由は、彼が一年前にプロデュースした「マリオのピクロス」にありました。せいぜい5万10万程度の売り上げだろうといわれていたのが、国内外あわせて100万本も売れていたのです。石原氏は、ゲームボーイの「ハンドヘルド」という形態に、まだ可能性が残っていると考えました。また、ゲームボーイは世界中で売れる商品だったので、任天堂も生産自体はコンスタントに続けていたのです。

しかし、ポケモンが「滑り込みセーフなのかアウトなのか」――この時はまだはっきりとはわからない状況だったのです。




【幻のポケモンが噂に】


ポケットモンスターが発売されてから約一週間後、初回出荷本数の23万本はすべてさばけました。ゆっくりとした出足ですが、それでも早くに初回本数はなくなったのです。しかし、任天堂はその後も出荷制限をかけたので、毎月20万本程度がじわじわと出ている状況でした。ポケモンに期待をかけていた者からすると、なんとももどかしい状況でした。

これが変化する出来事が、同年4月に起こります。当時、コロコロはポケモン150種類の姿を公開していたのですが、そこにいない一匹がいるというウワサがユーザーの間に広まっていました。当時は任天堂も小学館も知らないことでしたが、プログラマー・森本氏がイタズラとして「151匹目」をロムに仕込んでおいたのです。最初はただのバグとして扱われていましたが、すこし発想を変えて、これを「幻のポケモン」としてユーザーにプレゼントしようという話になりました。これをコロコロの誌面で発表したところ、20匹のプレゼントに対して7万8千という大量のハガキが小学館に送られてきます。その反響の多さから、コロコロ側でもポケモンに対する見方が変わります。

もうひとつ追い風として働いたのが、同年7月に発売された「ゲームボーイポケット」。これは任天堂の退社を決めていた横井軍平氏が、置き土産に考えていたバーチャルボーイが失敗したことで、退社を延期して作ったものです。開発のきっかけとなったのは「マリオのピクロス」で、もともとポケモンとは無関係に進んでいた商品でしたが、最高のタイミングでポケモンとの相乗効果を生むことになります。

それまでじわじわと売れていたポケモンは、これらの出来事をきっかけに口コミで人気が広がっていきます。店先から通信ケーブルがすべて消えてしまう事態も起こりました。同年9月になると、赤緑あわせて国内でミリオンを達成。10月には「ポケットモンスター青」を小学館の誌面上で販売します。これは当初の予想をはるかに上回る60万の注文が殺到して、小学館の販路をパンクさせてしまいます。

この熱気はまだまだ冷めないと考えた小学館は、ポケットモンスターの人気をさらに伸ばすために、新しい企画を立ち上げました。それがアニメ版「ポケットモンスター」です。




【アニメ放映の開始】


ポケモンのアニメ化企画がたちあがったのは、小学館がタイアップの漫画をコロコロ別冊から本誌へ格上げした、96年8月のことでした。ゲームのポケモンがミリオン目前という時期です。

アニメ化は人気を高めるための定石ですが、ゲーム会社からするとハイリスクでもあります。アニメのイメージがゲームにも大きく影響を与えてしまうからです。アニメの質が低かったり、不適切な表現でクレームがついたり、なにかひとつのきっかけで失敗すれば、それは順調に伸びている売り上げにも影響します。ポケモンはまだ伸びはじめの時期だったので、下手すると致命傷にもなりかねなかったのです。

最初、任天堂は慎重派でした。それまで自社キャラクターを映像化して成功した経験がなかったので当然です。しかし、それよりも、はっきりと反対したのが石原氏のクリーチャーズでした。もともと広告や映像を扱っていたぶん、キャラクターの寿命を加速させる可能性を強く懸念したのです。一方、田尻氏のゲームフリークは単なる肯定・否定ではなく、「もしアニメを作るならゲームをやること。それだけはどうしても必要」という回答でした。

三者三様の相手に、小学館の久保氏は粘り強く対応しました。アニメ化についての面倒なライセンス管理や問題はすべてひきうけると約束。クリーチャーズの懸念を払しょくするため、以前あった「ミニ四ブームの失敗」を繰り返さないための新しい制作体制を説明。ゲームフリークにも、アニメ制作にかかわる全員にポケモンをプレイさせるという要望を聞き入れます。そして、公式な回答をだしていなかった任天堂には、企画書をまとめて、再度プレゼンテーションを実施しました。その二時間後、任天堂はアニメ番組のスポンサーになることを電話で連絡します。

こうして、アニメ「ポケットモンスター」の制作がスタートします。放映が開始したのは、97年の春からのことでした。4月1日の初回視聴率は10.2%で、それから6月には14%台、10月には15~17%と暫増傾向を示して、11月11日の33話では最高視聴率18.6%を記録。オープニング主題歌である「めざせポケモンマスター」もダブルミリオンを記録します。ポケモンアニメは見事に波にのることができました。控えめにいっても大成功です。

12月に入り、「ポケットモンスター」はこのまま順調に年を越すかと思われましたが、ここで大事件が起こります。日本放送で史上最悪とまでいわれた「ポケモンショック」です。




【ポケモンショック】


1997年12月16日、アニメ・ポケットモンスター第38話「電脳戦士ポリゴン」放映中に、子供たちが一斉に倒れるという事故が発生しました。後に「ポケモンショック」「ポケモン騒動」と呼ばれる出来事です。

この回の放送直後に、テレビを見ていた視聴者の一部は体調不良を訴え、病院に搬送されました。その患者の多くはアニメのポケモンを見ていた子供でした。厚生省の報告書によれば、病院に搬送された子供が約750人、うち135人が入院したとのことです。症状は主に発作様症状、頭痛や吐き気などで、原因は激しい光の点滅を断続的に見たことにより、光過敏性発作が引き起こされたとされました。

第一報を伝えたのはNHKニュース。この時点ではまだ静かな放送でしたが、翌日以降は新聞やワイドショーでも大きく報じられました。見出しには「ピカチュウが子供たちを襲う」といった過激なものもあり、ポケモンを非難するようなコメントも少なくありませんでした。この時点ではまだ原因は不明で、アニメのポケットモンスターはしばらく放送を中止することになります。

調査が進んでいくにつれて、NHKが以前放送したアニメでも、同様の原因で気分を悪くしていた視聴者がいたことが明らかになります。さらに各放送局でも、自社のアニメや実写映像などが同じような手法が使われていて、事件の原因となった演出はけっして珍しいものではないと判明しました。むしろマスメディア全体で抱えていた危険性だったとわかり、バッシングは急速におさまっていきました。

最終的に、この事件は国レベルの対策がとられました。厚生省は「光感受性発作に関する臨床研究班」を発足させたほか、郵政省も「放送と視聴覚機能に関する検討会」を設置して、NHKと日本民間放送連盟が共同ガイドラインを策定することで合意。1998年4月11日には、「アニメ・ポケットモンスター問題検証報告」という題でテレビ東京が番組を放送します。番組冒頭にポケモン騒動の経緯とテレビを視聴する際の注意を呼びかけた上で、アニメ・ポケットモンスターの再開が正式に発表されます。

本来ポケモンを楽しんでもらうはずの子供たちが被害者となったことで、関係者全員がショックをうけた事件でしたが、それでも救いとなったのが、番組休止中にも再開を求める声が多数寄せられたことでした。アニメのポケモンは、1998年4月16日から放送が再開されましたが、視聴率は16.2%と人気を落とすことなく再開されたのです。

この事件を機に「テレビを見るときは部屋を明るくして離れて見てね」といった類のテロップが番組の冒頭で流れるようになります。




【世界のポケモン】


1998年、ポケットモンスターは海外向けに展開することを進めていました。さかのぼること二年前、日本でポケットモンスターの人気が高まっていた96年後半に、任天堂の山内社長が「これをアメリカでもだせ」と指示したからです。

日本で大人気となったポケットモンスターでしたが、これを海外で発売しようとは、それまで誰も考えていませんでした。ゲームフリークもクリーチャーズも「まず100%売れない」と予想しました。日本発のゲームが海外でヒットした例はありましたが、それらはすべて言葉のいらないアクションゲーム。日本で大ヒットした「ドラゴンクエスト」も海外では人気がなく、テキストのゲームは輸出しても受け入れられないというのが当時の常識だったのです。米国任天堂にしても、この時点ではポケモンをまったく評価していませんでした。

加えて、ゲームフリークはポケモン続編の開発にとりかかっていました。海外向けに作り直す(ローカライズする)時間などありません。とうぶん無理だと思われていたのですが、ここでローカライズを買ってでたのが、岩田聡氏でした。当時はまだハル研の社長だったのですが、MOTHER2の件をきっかけに、クリーチャーズの役員になっていたのです。岩田氏は直接プログラムの解析をして、任天堂の企画制作部に指示をだすという手法でローカライズを行いました。

もうひとつ問題となったのがポケモンのデザインです。米国任天堂にポケモンをみせたところ、「こんな可愛いのはモンスターじゃない」と返答があり、デザインの変更をもとめられました。岩田氏いわく「筋肉ムキムキにした企画案の絵が送られてきた」、石原氏によると「劇団四季の『キャッツ』のような感じの、たとえばピカチュウだったらトラ猫のような形で、胸が大きいキャラクターに変わってるわけよ」といった変わり具合でした。

ローカライズにおいて海外でイラストを変えることは珍しくなかったので、日本側のメンバーはどうしたものか悩みましたが、「成功例がないのなら、なおのことチャレンジする価値がある」という山内社長の言葉もあり、最終的に日本の絵をそっくりそのまま米国にもっていくことを決心します。また、米国任天堂のCEO・荒川氏は、日本にあるポケモンすべてをそのままアメリカにもっていくことを決めました。ゲームだけでなく、アニメもカードも映画もグッズも、すべてです。

1998年、アメリカで初めて「ポケットモンスター」のアニメが放映されました。米国の反応をみるために、先にアニメを放映したのですが、これが予想以上に好評。上手くいきそうだと考えて、米国任天堂はゲームも発売します。日本の赤・緑とは異なり、「アメリカの星条旗は赤と青」「赤の対として緑ではイメージが弱い」といった理由から、レッド・ブルーの同時発売でした。またたく間に売れて、予想を超えた大ヒットします。この手法は、後にヨーローッパで売り出すときも行われましたが、同じように大ヒット。あらゆる予想を上回り、ポケモンは世界中で受け入れられることになります。

皮肉なことに、ポケモンが世界で最初に知られるきっかけとなったのは「ポケモンショック」でした。ポケモンが海外でリリースされる少し前、世界中のニュースや新聞がこの事件をとりあげたので、アメリカやヨーロッパの人々が「日本中の子供が夢中になっているポケモン」の存在を初めて知って、強く興味をもったのです。

そして翌年の1999年、日本でようやく「ポケットモンスター金・銀」が発売されることになります。



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