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ポケットモンスターの歴史1

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【ゲームフリーク設立】


世界を熱狂させることになったRPG「ポケットモンスター」。このソフトが完成するまでには、約6年、ゲームボーイの誕生とともに歩んできた長い道のりがありました。

1989年4月21日、初代ゲームボーイが任天堂から発売されます。後に「ポケットモンスター」を生むことになる株式会社「ゲームフリーク」が設立されたのは、その5日後のことでした。当時のゲームフリークのメンバーは、田尻智氏を代表として、正社員とフリーを含めて6人くらい。その中にはイラストレーターである杉森建氏や、音楽制作の増田順一氏も含まれていました。

この集団「ゲームフリーク」の発足は、一冊の同人誌にさかのぼることができます。インベーダーブームを背景に、田尻智氏がゲーム熱から生みだした自主制作の本が「ゲームフリーク」というタイトルでした。このホチキスで留めただけの本を、新宿にある同人誌を扱っている本屋においてもらったところ、大きな反響を呼びました。刊行を続けているうちに、田尻氏とさまざまなゲーム好きとの間に交流が生まれ、そのうち各地にいたメンバーの上京をきっかけに、田尻氏も都心へ移り住むことに。ついには彼らとゲーム造りに着手して、ファミコンソフト「クインティ」をナムコに持ち込むのです。

そんなゲームフリークが会社化して、一番最初に生まれたのが「ポケットモンスター」の企画でした。これは「新しいハードでソフトを作ろう」という考えから、ゲームボーイに焦点をしぼって始まったものです。

田尻氏は、まずゲームボーイについている通信機能に注目しました。当初はもっと壮大なものを想像していたのですが、実物を見ると「テトリス」の対戦など、小さなデータの交換にしか使われていないことにイメージのズレを覚えます。またゲームボーイは当初RPGを作れないといわれていたのですが、同年12月にスクウェアから「魔界塔士Sa・Ga」が発売されたことで「ゲームボーイでもアクションゲームじゃない分野を追求できるんだな」と考えるようになります。

そして、ドラゴンクエスト2を遊んでいるときに、杉森建氏が2つもっていた「ふしぎなぼうし」を羨ましがる体験をもとに「通信ケーブルでいろいろなものが行き来する」という案を思いつきます。

田尻智氏はこれらのアイディアを企画書に書いて、1990年、自らの手で他の会社にもちこみます。向かった先は、東京に所在地をおく株式会社エイプでした。


※「ポケットモンスター」は、この時点では「カプセルモンスター」という名前でしたが、ややこしいので表記を「ポケットモンスター」と統一しています。




【エイプへの持ち込み】


株式会社エイプは、1989年のファミコンブームまっただなかにありながら、任天堂の山内社長が「いずれはゲームのアイデアが枯渇するだろう」と予言して、ほかの業種のクリエイターを起用するために作った会社です。
 
当時、エイプにいたコピ―ライターの糸井重里氏は「小説家がゲームを作るシステムを発表する」「誰でもゲームを作れる時代になる」といった発言をしていました。田尻氏はそれを聞きつけていて、この事務所が任天堂の窓口代わりになるだろうと考えたのです。さらに当時のエイプを実質的に仕切っていた石原恒和氏は、以前からの友達でもありました。

田尻氏の企画は、その場にいた全員から「面白い」と認められます。株式会社エイプの立ち上げから関わっている任天堂の総務課長・川口孝司氏がこの企画をもちかえり、ほどなくして任天堂からの出資が決定。石原氏がプロジェクトマネージャーを務め、エイプを介して三社間契約が結ばれます。

とんとん拍子の進行ですが、問題が発生するのはそれからでした。ゲームフリークは当時、任天堂・ソニーミュージック・セガを三本柱と見て、ゲーム制作を同時進行していましたが、そのバランスがうまく取れなくなってしまうのです。一番早く発売されることになる「ジュリーボーイ」に2年かかり、杉森建氏が進める「タルるート」もなかなか出来ず、「ポケットモンスター」にいたっては、RPGのノウハウ不足からまったく完成が見えない、そんな状況に陥りました。しかも女性をめぐるトラブルで、ゲームフリークから大量にメンバーが抜けてしまいます。

資金面でも苦しくなってきた田尻氏は石原氏と相談して、ポケットモンスターの制作を一旦中断することにします。それを聞いた川口氏は「なにかの役に立てれば」と任天堂の横井軍平氏を紹介しました。「半年でワンアイディアで、ゲームボーイとファミコン両方でリリースできるもの」という課題をあたえられ、それに応えるために田尻氏は3つほどモデルを提出。そのひとつに「こうすればゲームとしては上手くいくんじゃないか」と横井氏がアイディアを提供して、猛スピードで作られたのが「ヨッシーのたまご」です。

この「ヨッシーのたまご」は海外を含めてヒットして、ゲームフリークを良い方向に転がします。田尻氏いわく「プロとしての仕事の仕方を学べた」と同時に、任天堂サイドからの信用にも繋がったからです。「ポケットモンスター」は開発を中断した時点で、契約期限を守れていないのですが、その関係が切れることはありませんでした。「ほかのゲームを作りながら、「ポケモン」の話題は当分しないでおきましょうみたいな(笑)」対応を受けたといいます。

ゲームフリークはこうして、エイプを介してではなく任天堂と直接やりとりをしていきますが、じつはエイプ側もそちらの管理に手を回せなくなるほど深刻な問題を抱えていました。当時の株式会社エイプは小学館から攻略本をだすなど、主に出版の仕事をしていたのですが、実際に一番エネルギーを注いでいたのは「MOTHER2」の開発でした。しかし、その開発は遅々として進まず、四年目には頓挫しかけるのです。

その「MOTHER2」の実質的な責任者だったのが、石原氏でした。エイプ内でほとんどただひとりポケットモンスターを応援し、なにかと田尻氏の力になっていた石原氏は、この「MOTHER2」の危機によって、「出口のない道をさ迷っているような気分」を味わうことになるのです。




【星のカービィとHAL研の新社長】


場面は変わって、1992年のこと。ゲームフリークとはまったく別の会社で、重い社運を背負ったゲームボーイの企画が動いていました。後に「星のカービィ」となる「ティンクル・ポポ」です。

この会社、HAL研究所はゲームソフトの売上不振と不動産投資失敗を原因に、前年から経営不振に陥っていました。ほとんど倒産寸前という状況で、当時、社内でもっとも若かった桜井政博氏がディレクター、その上司である岩田聡氏がプロデューサーをつとめて制作されていたのが、この「ティンクル・ポポ」です。

すでに広告も打ち出し、いよいよ発売目前という時期に、思わぬ人物が「待った」の声をかけます。それが任天堂の宮本茂氏でした。「ちょっといじるだけで物凄く面白くなるんで」という提案から、すでに受注されていた二万六千本をキャンセル。発売を3か月後に延期して、「星のカービィ」というタイトルで任天堂から販売します。任天堂とHAL研は、ファミコン時代から蜜月関係にあるのですが、それを踏まえてもかなり乱暴といえる行為でした。しかし、これが後の人気シリーズに繋がる大ヒット作を生み出すことになるのです。

同年6月、HAL研究所は和議を申請。経営を続けられるかわり、十五億の借金を背負ってのスタートです。岩田聡氏が社長となり、任天堂の支援のもと再建にのりだします。「ティンクルポポ」が「星のカービィ」に生まれかわったのは、その支援の先駆けだったともいえるでしょう。

当時の任天堂社長・山内氏は、この岩田氏の才能を高く評価していました。彼は初心会の講演の場で、倒産寸前にあった「HAL研」の名前を13回も出して「これからどうなるか見とけ」と言いはなちます。そして和議から2か月後、「星のカービィ」は北米でもリリースされ、最終的に世界で五百万本以上の売り上げを記録することになります。

最初の受注数と比べると見違えるほどですが、じっさいの変更点は「タイトルを改名したこと」「容量を倍にしたこと(2周目追加)」そして「任天堂が販売元になったこと」だけでした。「カービィ」という名前は、アメリカでも人気がでるようにつけられたもので、最初から日本外でも発売するつもりでいたことが伺えます。

この出来事をきっかけに、任天堂とHAL研はより深い関係になっていきます。その始まりとなる場面、宮本氏が山内社長に相談しているところに、たまたま(?)居合わせたのが、株式会社エイプの糸井重里氏でした。後年「画期的だった」と振りかえるように、これは糸井氏にとってもインパクトのある出来事でしたが、一年後には、HAL研の社長とそれを上回る衝撃的な出会いをすることになります。



 

【マザー2の発売】


「いまあるものを活かしながら手直ししていく方法だと、2年かかります。イチからつくり直していいのであれば、半年でやります」

1993年、株式会社エイプを訪れた岩田聡氏は、「MOTHER2」のプログラムを見てそういいました。4年かかってもゲームの完成がみえず、ついにはプログラマーにも逃げられてしまったどん底の状況で、任天堂の川口氏が「岩田さんに相談してみる?」と提案したことから、HAL研の新社長はこの場を訪れることになったのです。

シナリオライターの糸井氏も、責任者であった石原氏も、この発言には戸惑いつつ「イチから」お願いするのですが、1か月後、それまで動かなかったプログラムがちゃんと動いているのを見て驚愕します。岩田氏は、カービィのときはプロデューサーを務めましたが、もとは凄腕プログラマーでもあったのです。岩田氏いわく「ちょうど星のカービィが終わった頃に」「最初は少しだけアドバイスして部分的に手伝う予定だった」のですが、そこからメインとしてMOTHER2の制作に加わります。

同時期、ゲームフリークは「マリオとワリオ」を作り終えて、ようやくポケモンの制作にエンジンをかけていました。ヨッシーのたまご以降、ゲームフリークは順調に作品をリリースしていましたが、その裏側で、ポケットモンスターの影はかなり薄くなっていました 任天堂も、エイプも、そしてゲームフリークのメンバーでさえも、この企画の存在を一度ならず忘れています。そんな中、田尻氏だけはずっと「絶対に作るんだ」と決心していました。

結果的に、近いところでずっと動いていた「MOTHERシリーズ」は、「ポケットモンスター」に大きな影響を与えることになります。田尻氏は何度となく「『MOTHER』が作りたいんですよ」と糸井氏にいっていました。それはリスペクトやアンチも含めて、それまであったRPGに異議を唱えるような、新しい世界観を作るという意気込みがこめられていました。

田尻氏は、自身の体験を少年時代にまでさかのぼり、純粋に面白いと思っていたことを、ゲームの中で表現しようと決意します。それが、町にスペースインベーダーが襲来して、ゲーム少年になるよりも前――虫取り少年であった頃の「捕まえる」という体験でした。

1994年、ついに「MOTHER2」が世に出ます。5年という長い歳月をかけての完成ですが、岩田氏が関わってからは一年のことでした。これに燃え尽きた形で、エイプはクリエイティブ部門の活動を休止。その結果、ゲームフリークとエイプ間の契約は「清算」という形で解除されます。

もともとエイプからはディレクションもスケジュール管理もされていなかったので、ゲームフリークの開発環境にほとんど影響はありませんでした。が、それでも「MOTHER2」の完成は、ポケットモンスターにとって転機となりました。石原氏がエイプの社員を引き連れて独立したからです。


(余談ですが、マザー2の発売から約3か月後に、糸井重里氏の発案で「ゲームボーイブロス」が発売されています。これは当時、他になかったカラーバリエーションの先駆けとなる商品で、タイミング的にいって、ポケモンのカラーバリエーションにも影響があるように考えられるのですが、はっきりと明言された資料はありません。ちなみに色は6種類で、初代のグレーを含めると7色)。




【6年越しの完成】


1995年、田尻氏はほとんど死にそうになりながら、会社の経営をしつつ、ポケモンのデザインとディレクションを行っていました。制作に追い込みをかけながら、開発資金がすり減っていく苦しい時期。石原氏は、共同で会社を作らないかと、田尻氏にもちかけました。会社設立について相談するとともに、苦しそうな友人を心配してのことでした。

田尻氏は真剣に悩みますが、ゲームフリークはもはや自分と切り離せない、という結論に達します。結果的に二人で会社を作ることはありませんでしたが、ともにポケットモンスターを完成させようと、この時あらためて互いの気持ちを確認します。その後、石原氏は1995年11月に株式会社クリーチャーズを設立して、さまざまな形でポケットモンスターを支えていくことになります。

一方、ゲームフリークの多くのメンバーは、ポケットモンスターの開発にひたすら力を注いでいました。当時ゲームフリークの社員は15人ほど。杉森氏を中心としたデザイナーは、手分けしてポケモンを何百体も描き、社内で人気投票をして150匹まで数を絞り込んでいました。また、サウンドの増田氏もパターンを駆使してポケモンの鳴き声を作成したり、「ポケモンが突然現れた」ことを表現するために、戦闘曲には驚きを表現するリズムを盛り込んだりと、「ポケモン」を中心にすえた音楽制作をほぼ終えていました。それらをプログラムに落としこむ作業には、プログラマーだけでなく、音楽やライターのメンバー総出で行っています。

ポケモン完成のめどがたってからは、ひたすらデバッグ作業。このときになって「ポケモンに名前をつけたい」という案が浮上します。この時点の容量では、ポケモンに名前をつけると30匹しか保存できないのですが、田尻氏は「どうしてもいれたい」「できれば保存できるポケモンの数も減らしたくない」ということで、石原氏を通じて、任天堂と交渉します。「絶対面白くなるので」と理由を説明して、ゲームの容量を増やしてもらうことを繰り返し頼みこみます。

任天堂サイドは、コストが高くなることを理由に断りつづけますが、最後の最後に、任天堂の宮本茂氏が「それで全然ゲームが変わってくるのであれば、そうしようよ」と一言。最終的に当初の4倍の大容量となることが決定します。さらに宮本氏は、ゲームフリークが交換を促すために考えていた「ID」の仕組みを聞いて、「ゲームを始める前から選択が始まっているというのは、ちょっと面白い」「色が違って見た目が違えばよくわかる」とカートリッジの個別化を提案。田尻氏はこれを聞いて「7色出したい」と希望を述べますが、それは現実味がないということで、最終的に2色というところに落ち着きます。

「ポケットモンスター」は95年暮れまでにラストスパートをかけます。スタッフは不眠不休、田尻氏は毎日倒れるまでシナリオを書き直し続けました。発売はクリスマス前に照準をあわせており、そのための「赤」「緑」=クリスマスカラーだったのですが、バグが多すぎて間に合わず、もともと夏から延びていた発売日を、さらに2ヶ月ほど延期します。

「9月から12月までの4か月は、ほとんど寝ていないんじゃないかっていう状況が、みんな続いていたんですよ。それがある日終わってしまった。終わったことが信じられないっていう感じでしたね。えっ、何で終わっちゃったのっていう終わり方でしたよ。」……ポケモンが完成した日のことを、石原氏はこう振り返ります。

そして1996年2月27日、「ポケットモンスター赤・緑」は任天堂から発売されました。




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