> ゲームボーイの歴史

テトリス誕生秘話


CONTENTS


【テトリス誕生】


落下型パズルゲームの始祖「テトリス」は、鉄のカーテンに覆われた時代のソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)で生まれました。

1984年、ソ連政府系の研究所に勤めていたアレクセイ・パジトノフ氏は、モスクワの玩具屋で「テトリス」のインスピレーションの元となる商品と出会いました。それは当時のソ連で広く普及していたプラスチック製の「ペントミノ」のパズルセットです。パジトノフ氏はこのパズルセットを研究所のデスクに持ち帰って、ペントミノの図形的なデザインをエレクトロニカ60というコンピュータ上で再現することを試みました。

より扱いやすくなるという理由から、ブロックの数を5つ(ペント)から4つ(テトラ)に減らすという過程を経て、パジトノフ氏はパズルの初期バージョンとなるプログラムを6日間で完成させました。パジトノフ氏は自分で作ったプログラムを何度か遊んでみましたが、このプログラムには何かが欠けていると感じていました。「ブロックを隙間なく埋める」というルールだけでは、一度完了すると、もう一度プレイしようという気にはならなかったのです。

なんとか問題を解決しようと改良を重ねた結果、パジトノフ氏はついに大きなイノベーションに繋がるアイディアを思いつきました。それが、『横一列がブロックでいっぱいになると列が消滅する』という新ルールです。この追加要素によって「ブロックを上手くスクリーン内に収める」だけでなく「可能な限り多くの列を消す」というゲーム性が生まれました。プレイヤーがブロックと格闘するさまは、パジトノフ氏にテニスを思い起こさせたので、彼はこのパズルゲームに「テトリス」(テトラミノ+テニス)と名付けました。

彼が開発したパズルゲームの存在は、まもなく研究所内に知れわたるようになりました。ほかの学生や研究者が彼のデスクのまわりに集まって、順番待ちでゲームの腕を試しました。同僚2人の助けによって、IBM互換機上でもテトリスが動くようになると、そのブームはさらに加速します。プログラムをコピーしたいというリクエストがひっきりなしに寄せられるようになり、多くの人が中毒者のようにテトリスを遊びました。初期のテトリスには、BGMも効果音も難易度という概念もありませんでしたが、説明なしで誰でも理解できるゲーム性と高い中毒性はすでに備えていたのです。

プログラムのコピーのコピーという形を経て、テトリスブームは研究所の外部にまで伝播します。1986年までに、モスクワの都市部でIBM互換機を扱う人々のほとんどがテトリスを遊んだことがある状態になったといいます。当時のソ連では、内輪に制作したゲームがこのように広がることは前代未聞の現象でした。

しかし、この時点ではテトリスのためにお金を払ったことがある人は、公式には一人もいなかったのです。


※意外とピンとこない人が多いらしい(?)テニスとテトリスの共通点を解説してみます。テニスのプレイヤーはしばしば攻め/守りという立場になることがあります。ふつう不利なのは守りのほうで、相手の攻撃に対して短い時間で返球しないといけないので、ミスする確率は高くなります。しかしそこで上手く立ち回ると、逆転あるいは優位性を取り戻すことができるスポーツです。テトリスも同じで、ブロックが高く積まれると、次の対処に時間をかけられず失敗しやすくなりますが、上手くプレイすると空きスペースができて、再び余裕を取り戻すことが可能です。このような一進一退となるゲーム性を、パジトノフ氏は共通点として見出したのかもしれません。


【テトリスのライセンス騒動】


初めてビジネス的な視点からテトリスに注目したのが、ハンガリーで「アンドロメダソフト」という会社を起こしたロバート・スタイン氏でした。定期的にハンガリーの研究拠点を訪れていた彼は、そこであるゲームが学生間で盛り上がっていることを知ります。それこそが国境を超えて遊ばれていたテトリスでした。テトリスのコピープログラムは、パジトノフ氏の上司を経由することで、ハンガリーの研究施設にまで行き届いていたのです。

テトリスを少し遊んだだけで面白いと感じたスタイン氏は、これは大きなビジネスチャンスだと考えました。早速テトリスの出所を調査して、最終的に突き止めたソ連の研究所にコンタクトをとることに成功します。このとき直接対応したのがパジトノフ氏本人でした。彼は慣れない英語とテレックスに悪戦苦闘しながら、スタイン氏の「テトリスを販売したい」という提案に肯定的な返事をします。スタイン氏はこれでゲーム製作者本人からの許諾を得たと考えて、即座にビジネスを実現するために動きだします。

テトリスを英語圏に売り込むために、スタイン氏が会社のパートナーとして選んだのが、イギリスの「ミラーソフト」とアメリカの「スペクトラムホロバイト」でした。どちらも独自のソフトウェア開発と販売の実績をもった会社です。2社との契約合意は滞りなく済んで、スタイン氏に残された仕事は、ソ連側と正式な契約を結ぶだけとなりました。しかし、スタイン氏の意に反して、この交渉は遅々として進みません。このとき、ソ連側の交渉人はパジトノフ氏からアカデミーソフトという研究所の内部機関に引き継がれていたのですが、彼らは未知のライセンス契約に慎重な態度をとり、なにかと契約内容に難癖をつけたのです。

思うように契約締結が進まないことに業を煮やしたスタイン氏は、そこで大きなルール違反を犯しました。まだテトリスの権利に関する契約をソ連側と正式に結んでいないにも関わらず、テトリスのライセンスをミラーソフトとスペクトラムホロバイトに供給するという契約を結んでしまったのです。これが1987年6月のことでした。彼は事後承諾でも権利を取得できれば問題ないと考えていたのですが、実際には1988年1月にテトリスの商品が店頭に並ぶようになったときも、彼はソ連側と明確な契約を結べていませんでした。

ライセンスの根幹に穴があるとは、ほとんどの人間が知らないまま、テトリスの権利は複雑化しました。それぞれの会社が権利を活用して利益を得るために、テトリスのサブライセンスを国やハードウェアごとに分割して供与するようになったのです。例えばアーケード版のテトリスの権利は「アンドロメダソフト→ミラーソフト→アタリゲームズ→テンゲン→セガ」というように、サブライセンスにサブライセンスを重ねる形で転売が行われました。日本では、家庭用ゲーム機の権利をBPSが、業務用ゲーム機の権利をセガが手に入れて、テトリスを展開することになっていました。

そこにまた、新しくテトリスの権利を得たいと考える会社が登場しました。当時、ファミコン(NES)によって日米の家庭用ゲーム機市場の95%以上を占めるようになっていた<任天堂>です。


【任天堂のテトリス発売とその後】


1989年、任天堂は開発中のゲームボーイ向けソフトとして「テトリス」を発売したいと考えていました。当初、任天堂の開発部ではテトリスに熱中している者は一人しかいなかったのですが、その一人がずっとテトリスをやり続けていることから「そんなに面白いのか」と部署内で話題になり、その面白さが社内で広まったことで、テトリスの権利を得たいという意見がでるようになったのです。それと並行して、米国任天堂でもテトリスの権利に注目するようになっていました。

日本ではすでに家庭用ゲーム機(ファミコン)のテトリスがBPSから発売されていましたが、任天堂は「ハンドヘルド版のテトリスの権利はまだ誰も所有していないはずだ」ということに目をつけました。そこでハンドヘルド版のテトリスの権利を獲得するために、任天堂がライセンス獲得を依頼した相手が、BPSの社長であるヘンク・ロジャース氏でした。遡ること4年前(=1985年)、ロジャース氏が囲碁ゲーム開発費を出資してほしいと任天堂を訪ねたことから始まった関係でした。

任命を受けたロジャース氏は単身ソ連に乗り込み、翻訳兼ガイドの女性に助けられながら、なんとかテトリスの権利交渉の場につきました。このとき、ソ連側の交渉担当はELORG(正式名称はエレクトロノルグテクニカ、外国貿易省が設置する組織)が引き継いでいました。そこでロジャース氏がプレゼンの一環としてファミコン用テトリスをELORGに見せると、相手はロジャース氏が予想だにしない反応をしました。ELORGは、テトリスはコンピュータ(=PC)以外のライセンスは許諾していないし、そんなものを発売していたことも知らないというのです。

家庭用テトリスの権利をテンゲンから買った当事者であるロジャース氏は、この発言に衝撃を受けますが、すぐに頭をフル回転させてELORG相手に弁明と交渉を開始します。彼はソ連側の権利を尊重することを強調し、国際的なソフトウェア取引について懇々と説明しました。ELORGはテトリスが勝手に国外で売られていたことに激怒していましたが、ロジャースの根気よく丁寧な説明に怒りを収め、後日改めて交渉の場を設けることを宣言します。このときELORGは最大限の利益を得るために、テトリスの権利を欲しがっている全員と交渉を行うことを決めたのです。

この直後、ELORGはアンドロメダソフトのスタイン氏と交わしていた契約内容に、ある修正を施しました。契約書面上の「コンピュータ」という表現を「コンピュータはプロセッサー・モニター・ディスクドライブ・キーボード・OSで構成される」という具体的な記述に修正したのです。スタイン氏は金銭の支払いに関する項目に気を取られて、この箇所にはほとんど注目せず契約書にサインをしました。これによって、スタイン氏は契約書面上の「コンピュータ」はPC以外を含めたものであると後から主張することができなくなりました。

改めてテトリスの権利の入札に参加したのは、任天堂代理のロジャース氏、アンドロメダソフトのスタイン氏、ミラーソフトのマクスウェル氏の3名でした。スタイン氏は最初にライセンスを取ったのは自分だと主張しますが、当初の契約に不備があることをELORGから咎められて返答に窮しました。マクスウェル氏は自分の会社がサブセンスを与えて作られた家庭用テトリスを海賊版だと失言して墓穴を掘ってしまいます。交渉をもっとも有利に進めたのがロジャース氏で、最終的に任天堂がハンドヘルド機のみならず家庭用ゲーム機を含んだライセンスもすべて取得するということでELORGの合意を得ました。

その後、この話を聞きつけたアタリゲームズとテンゲンが、権利を侵害されたとして訴訟を起こしますが、任天堂はそれに対して逆提訴。全面対決となりましたが、判決はすぐに下され、テンゲン側の敗訴となりました。これにより、テンゲン版のテトリスは発売後4週間もしないうちにすべて店頭から撤去されます。日本でも、この動きを見ていたセガがメガドライブ版「テトリス」の発売中止を発表しました。そして、1989年6月、ゲームボーイ版「テトリス」が発売され、最終的に日本で400万本以上、世界で3500万本以上の売上げを記録する大ヒットとなりました。

BPSのロジャース氏は交渉に成功した功績により、任天堂が手に入れた家庭用テトリスのサブライセンスをそのまま与えられたといいます。しかし、世界中がテトリスの熱気に沸く頃にも、テトリスの開発者であるパジトノフ氏には一切のロイヤリティが与えられませんでした。テトリスは国(ソ連)が所有権をもつ研究成果であるとして、個人の権利が認められなかったためです。しかし、1995年に権利をめぐる合意が失効すると、パジトノフ氏にもようやく使用料が入るようになりました。その後、パジトノフ氏はテトリスや関連商品のライセンスを扱う「ザ・テトリス・カンパニー」をロジャース氏と共同で設立しました。

2017年までに、すべてのバリエーションを合わせたテトリスの売り上げは、物理的なパッケージで1億7000万以上。無料版を含めるとモバイル機器のダウンロード回数は5億回以上に達したといわれています。


【セガ・テトリス事件について】



日本で「テトリス事件」といえば、メガドライブ版テトリスの発売中止が有名です。巷ではライセンス騒動の末にセガはメガドライブ版のテトリスの権利を失った、というような書き方をされがちですが、この説明には根本的な誤りがあります。

当時、セガはテンゲンから「業務用テトリスの権利」しか買っていないので、、セガが騒動で失ったのはアーケード版テトリスのライセンスだけです。
「家庭用テトリスの権利」は最初から手にすらしていません。


にもかかわらず、「これで家庭用のテトリスも自由に売り出せるだろう」と自己流の解釈をして作られたのが、メガドライブ版「テトリス」でした。

セガは、「テトリス」というゲームのライセンスを取得しているのだから、家庭用だって自由に売り出せるものと考えていた。ところが、誰かの入れ知恵だったのだろうけれど、任天堂が、そのELORGに対して、「いやいや、確かに最終的にはセガにライセンスしているけれど、それは業務用でしょう。家庭用は、話が別なんです」と吹き込んだ。だから、家庭用はうちと契約しませんか、というわけだ。
(「元社長が語る!セガ家庭用ゲーム機 開発秘史」佐藤秀樹・著、徳間書店)


セガの佐藤氏は上記のように述べていますが、ソフトウェアのライセンスがPC用/家庭用/業務用などハードウェアごとに分かれていることは当時から広く認識されていました。だからこそ、任天堂も「ハンドヘルド版のテトリスなら権利を得られるかも」と最初に考えたわけですし、ミラーソフトやテンゲンなどの会社も同様の認識で権利を扱っています(そもそも区別しないのなら「業務用」という表現をする理由がありません)。セガがこのような基本的な知識をもっていなかったとは俄かには信じがたいですが、上記で紹介した書籍をみるかぎり、どうも本当に理解していなかった可能性があります。

また、上記の書籍では、任天堂のライセンス獲得について「セガの動きを知った上のことだったのだろうと思う」と佐藤氏は述べていますが、これも誤解といえるでしょう。任天堂は、ファミコン版テトリスを開発した<BPS>が家庭用テトリスの権利を所持していると認識していました。まさかセガが「業務用」のライセンスで「家庭用」のテトリスをだす計画をしていたなんて想像できるわけありません。

業務用のセガ・テトリスは日本で初めてテトリスブームを生み出し、後の落ちモノパズルのお手本になるほどのものでした。しかし、家庭用のセガ・テトリスに関する事件は、世間で知られている以上に、ひどい誤解に満ちた出来事のひとつだったといえるでしょう。

inserted by FC2 system