> ゲームボーイの歴史

ゲームボーイ誕生秘話


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【プロローグ(ゲーム&ウォッチ)】


携帯型ゲームの先駆者といえば、80年代前半に世界中でヒットを飛ばしたゲーム&ウォッチであり、任天堂のゲーム快進撃も、まさにここから始まったといえます。

これはウルトラハンドや光線銃などを手がけた横井軍平氏の発明品で、元となるアイディアは出張中の新幹線のなかで生まれました。サラリーマン風の男が退屈しのぎに電卓で遊んでいる姿をみて、横井氏は「暇つぶしのできる小さなゲーム機」を思いつくのです。しかし、とくに凄い考えだと思ったわけではなく、携帯ゲーム機のアイディアは、横井氏の頭のなかだけでしばらく温められることになります。

ある日のこと、任天堂社長の山内溥氏専属の運転手が病気で休んだことから、横井氏が一日運転手を任されることになります。社長専用車は外国産キャデラックであり、左ハンドルを運転することができるのは、中古の外車を乗り回していた横井氏くらいでした。しぶしぶと引き受けた横井氏でしたが、車に乗っている間に雑談として、山内社長に新幹線の中で考えたアイディアを話して聞かせます。「サラリーマンでも暇つぶしとして遊べる小さなゲーム機があれば面白いのではないか」と…。そのときの社長は、さほど興味をみせなかったといいます。

何日か過ぎたある日、突然、横井氏は社長に呼び出されて、来訪したシャープ社員達と顔をあわせます。横井氏が運転手を務めた日の会合の席で、山内社長がシャープの社長に小型ゲーム機の話題を持ち上げたところ、シャープの液晶技術からも可能であると話が進んだのです。こうして横井氏の携帯ゲーム機のアイディアが急速に現実化していくこととなります。

手のひらに隠して遊ぶことができる形を追求した結果、ゲーム&ウォッチは横型の筐体にシンプルなボタン配置というデザインになりました。そして1980年、携帯型液晶ゲームマシンとして任天堂から発売されます。今では当然のように使われている十字キーも、このゲーム&ウォッチシリーズから発明されたものです。



【ゲームボーイ誕生まで】


爆発的に売れたゲーム&ウォッチでしたが、これは基本的に1台につき1種類のゲームしか遊ぶことができないゲーム機でした。ユーザーが遊べるのは内蔵のROMに書き込まれた1種類のみで、新しいゲームがしたければゲーム&ウォッチをもう一台買う必要があったのです。

ゲーム&ウォッチから8年後、ソフトを取り替えることによって様々なゲームを遊ぶことができるマルチソフト型携帯ゲーム機が、横井軍平氏率いるチームにより開発されることになります。これが「ゲームボーイ」です。

ゲーム&ウオッチに比べると、ゲームボーイの開発は難航することになります。当初、ゲームボーイの液晶にはゲーム&ウォッチに使ったものと同じTN液晶を採用していたのですが、試作品をプレイした山内社長は「なんだこれ。見えへんやないか」と顔をしかめました。もともと電卓用のTN液晶では、斜めからは見やすくても正面からは見にくいため、ゲームボーイの液晶としては難があったのです。横井氏は苦悩した末に、コントラストは良いが表示スピードが遅い液晶(STN液晶)を使用させてもらうことをシャープに依頼。これが結果的に成功して、正面からも見ることができる液晶モニターが完成します。

次にゲームボーイに求められたのは頑丈さでした。外に持ち出して遊べることが売りである以上、乱暴に扱っても通常どおり動作しなければなりません。ようやく完成したゲームボーイの試作品は、耐久テストとして高所から何度も落とされました。壊れた場合には作り直しとなり、耐久テストの後でもきちんと動作するようになって、ようやく発売が決定しました。

また、山内社長はゲームボーイを全ての国の電波防止法をパスする世界共通規格にすることを指示。電源についても「外人は充電してまで遊ばない」という意見でアダプターによる充電式から電池式に変更します。これらのゲームボーイの設計が、まさしく世界中に普及する要因となります。そして通信機能も、「つけてもコストはほとんど上がらないし、なにかそこで面白いゲームが出てくることが期待できる」という理由から取り付けられました。さほど深く考えずに付けられた機能でしたが、これも後にゲームボーイが返り咲く要因となります。

こうして、モノクロディスプレイを搭載したROM交換方式の携帯型ゲーム機が誕生。ゲームボーイと名付けられ、1989年4月21日に12800円(メーカー希望小売価格)で発売されます。同時発売ソフトは「スーパーマリオランド」・「アレイウェイ」・「ベースボール」・「役満」の4本でした。



【テトリスによる一次ブーム】



紆余曲折の末、なんとか発売されたゲームボーイでしたが、その前評判はもともと高いものではありませんでした。

なにせ既にメガドライブやPCエンジンが発売されており、さらにスーパーファミコンの噂もささやかれている時代です。カラーなど当たり前、グラフィックがどんどん綺麗になっていく中で、ゲームボーイの小さなモノクロ画面は、当時の感覚からしてもかなり地味なものでした。

「任天堂は何を考えているのか」と考えた人も少なからずいたわけですが、じつは任天堂内でもゲームボーイはあまり期待されていませんでした。ゲームボーイがDMG(ダメゲーム)と呼ばれていたことや、開発途中で液晶の問題がでたときにも「見えんから売らんでもええやんか」と言われていたことからも、そういった雰囲気が窺えます。

とはいっても、もちろん開発チームは売れるだろうと思って作っていました。そしてゲームボーイ用ソフトとして目をつけた作品が、当時業務用でブームとなっていた「テトリス」です。ロシアで版権を獲得し、チームは「テトリス」をゲームボーイ用ソフトとして開発します。操作性が改良され、通信ケーブルによる対戦要素を付加された「テトリス」は、1989年6月14日に通信ケーブルと同時発売されました。

あっという間に人気が広がり、ゲームボーイとテトリスは大ブームになります。海外では、この2つはセットとして販売されました。単純で分かりやすく老若男女問わず楽しめるテトリスと、世界中で遊べるように設計されたゲームボーイのタッグは強力なもので、ゲームボーイは世界中で大ヒットします。

これがゲームボーイの第一次ブームです。ネガティブな前評判を吹き飛ばして、ゲームボーイは波にのることに成功しました。最終的にテトリスは423万本の売り上げを記録します。また同時発売だったスーパーマリオランドは419万本、役満も128万本のミリオンセラーになりました。

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