> ゲームボーイの歴史

湾岸戦争とゲームボーイ



■米兵たちのあいだで人気となったゲームボーイ

湾岸戦争が勃発した1990年の翌年、多くの多国籍軍の兵士がゲームボーイを遊んでいる様子が放映されて話題を呼びました。当時のNOM(ニンテンドウ・オブ・アメリカ)が、大量のゲームボーイを寄付していたのです。

中東に派遣された兵士50万人のうち、半数の25万人がゲームボーイで自由時間を楽しんでいたことが、ニンテンドーオブアメリカの調査で明らかになった。(ファミコン通信の記事より)

記事によると、戦地にいる兵士二人に一人の割合で、ゲームボーイが遊ばれていたそうです。ゲームボーイの他にも、携帯ラジオやカップラーメンなどが日本の支援物質として送られていました。その後、ソフトメーカーに米軍当局や兵士たちからゲームボーイソフトの問い合わせが殺到したそうです。

101空挺師団のロバート・デルジオルノ大尉いわく「砂漠で時間を過ごすのにこんな素晴らしいものはない」

「湾岸戦争のときから、日本から一番緊急に援助してもらいたい物質は兵士の無量を慰める”ゲームボーイ”だ」と記事に書かれるくらい、当時は大きなインパクトをもたらした報道でした。



■ゲームボーイでみられる任天堂商品の耐久度

 

現在ではかなり有名なエピソードになったのが「湾岸戦争で生き残ったゲームボーイ」

湾岸戦争で爆撃をうけた家屋から、焼け爛れたゲームボーイが発見されたのですが、これに液晶を差し替えて電源を供給したところ、なんと正常に動作したということです。このゲームボーイは、今でもニューヨークにある任天堂直営店Nintendo World Storeで展示されており、任天堂商品の耐久性を示すものとして広く知られるようになりました。

じっさい、任天堂はゲームボーイが発売されるより前から商品の耐久性にこだわっていました。下記は、1988年の「電視遊戯大全」に書かれた任天堂の今西紘史氏のコメントです。

ゲーム&ウオッチやファミコンはゲームや玩具の流通を使っているのです。ですから、流通の過程においては、電気製品並のデリケートな扱いは受けられません。また、子供達が遊ぶときには。どんなにやんちゃな使われ方をするかもしれません。
そのためゲーム&ウオッチやファミコンには、かなりの耐久性を備えさせました。

ファミコン本体のデザインはあまりスマートではない、としばしば言われるのですが、デザインよりもまず耐久性の方を優先させたのです。例えば、ファミコンに50kgの荷重を加えてみたけれども壊れることがなかった、というテストがある位なのです。


任天堂の耐久テストについては本当に厳しいらしく、開発者が「愛情をこめて製品を作っているぼくらとしてはイヤになるくらい厳しいテストですね」と語っているほど。しかし、その苦労のおかげで、ユーザーにとっては頑丈で信頼できる商品となっているのでしょう。


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