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大乱闘スマッシュブラザーズの誕生秘話

※このエピソードは、ポケットモンスターの歴史1ポケットモンスターの歴史2からの続きです。


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【対戦格闘ゲーム竜王】


難産だった『MOTHER2』が、ハル研の協力によって無事完成してから2年後、任天堂からニンテンドウ64が発売されました。それまでゲームボーイやスーパーファミコン向けにソフトをリリースしていたHAL研究所は、この新しいハードにも早くから参入を発表して、ソフト制作に着手していました。

ところが、ニンテンドウ64はソフト開発が非常に難しいゲーム機でした。技術力の高い海外メーカーでさえ開発に四苦八苦、結果としてゲームの出来が悪くなり、スタートダッシュとして用意されていた17タイトルが発売予定表から消えてしまうぐらいでした。HAL研もカービィボウル64・カービィのエアライドというタイトルを制作していたのですが、最終的に発売中止となってしまいます。

当時のHAL研は、まだ大きな借金を抱えた状態にありました。約2年をかけても新しいハードにソフトを一本もだせていないという状況は、再建中の会社にとって深刻な問題でした。そこからまた時間をかけて新しいゲームを作るとなると、時間や資金についてシビアに考えざるをえません。当時のHAL研社長だった岩田聡氏は、すでに進行中だったソフト制作について方針変更を決断します。

1997年の春、HAL研は「対戦格闘」「アクションアドベンチャー」という二つの企画を同時に進めていました。社内コンペの結果、勝ち残った「アクションアドベンチャー」を作ることになっていたのですが、カービィのエアライドが発売中止となったことから、やはり「対戦格闘」のほうを作ろうという話になりました。アクションゲームのほうが制作に時間がかからないと判断されたのです。「来年のクリスマスを照準にあわせて短時間で作ろう」と目標をたてて、1997年11月頃に「対戦格闘」の制作がスタートします。

この一度は没となった企画が、後に大乱闘スマッシュブラザーズと呼ばれる作品となります。もとは1996年10月に桜井政博氏が発案したもので、最初は「4人同時対戦可能ダメージ排除型バトルロイヤル格闘」という長いタイトルがつけられていました。当時の「狭いところに入り込もうとしている2D格闘ゲームに対するアンチテーゼ」をコンセプトに、体力ゲージなし・勝敗を決めるのはリングアウトのみ・蓄積ダメージによってキャラがふっとびやすくなる、といった仕様が最初から決められていました。開発中のゲーム背景に、HAL研があった山梨県・竜王町を使ったことから「対戦格闘ゲーム竜王」という仮名がつけられます。

開発は順調に進みましたが、家庭用の格闘ゲームとして問題となったのがキャラクターでした。そのころに流行していた格闘ゲームは、どれも個性の強い魅力的なキャラクターが登場することが定番になっていました。アーケードゲームでは対戦を楽しんでいるうちにキャラクターも自然と認知されますが、コンシューマゲームだとそうはいきません。

「ゲームの世界観やイメージを、最初にうまく伝えられないのは困る」と考えた桜井氏は、使用キャラクターについて岩田社長にあることを相談しました。それが任天堂に「キャラクターを使わせてください」とお願いすることでした。

※「カービィのエアライド」というタイトルは、後にゲームキューブで発売されますが、ニンテンドウ64で制作されていたものとは基本的に別物です。



【任天堂オールスターへの道】


 ※会社とキャラの著作権の関係をあらわした図(キャラはシリーズの代表のみ)


「任天堂のキャラクターを使う」というアイディアがでたものの、これは決して簡単ではありませんでした。

当時のHAL研究所は、任天堂のセカンドパーティと呼ばれる立場にありました。セカンドパーティとは、任天堂の宮本茂氏によると「任天堂が出資したり保証したりする形で協力している会社」のことです。任天堂はゲーム事業においてソフトがなにより重要と考えていたので、任天堂=ファーストパーティと、他のソフトメーカー=サードパーティ、その中間にあたるセカンドパーティという「構造」を早くから作っていたのです。

セカンドパーティが作ったゲームソフトは任天堂が発売元になるので、ユーザーから見るとセカンドパーティの作品も「任天堂のゲーム」に見えがちですが、実態としてはセカンドパーティは基本的に任天堂と別の会社です。HAL研に関していえば、任天堂の子会社でもなければ、グループ会社でもありません。また、セカンドパーティ同士もほとんどの場合は別会社です。

つまり、当時のHAL研がやろうとしていたことは、別の会社に「看板キャラを貸せ」ということに他なりません。ましてや任天堂のビッグタイトルを複数借りるとなると、ふつうなら実現不可能です。じっさい、岩田聡氏が初めて任天堂の宮本茂氏と交渉をした時は、「2つ返事でOKをだすわけにはいかないよ」「他の方法はないの?」と断られています。

しかし、岩田氏に限っていえば、勝算がないわけではありませんでした。当時、任天堂が看板タイトルを他社に貸すという例はすでにあったのです。レア社のスーパードンキーコングやハドソンのマリオパーティなど、ファミコン時代から任天堂とつきあいがあり、良好な関係を築いていた会社だからこそ実現できたわけですが、その点でいえばHAL研も負けていません。岩田氏は1983年から任天堂と関わっており、各部署と共同の仕事もしています。信頼関係はありました。あとはゲームの出来だけが説得材料になると考えました。

岩田氏は会社にもどると、提案を断られたことは伏せたまま、スタッフを集めてキャラクターが4人だけのスマブラを作りました。第一印象が勝負だと思い、気合の入れたテスト版を作って宮本氏にプレゼンをしたのです。これが功を奏して「ああ、これ、遊べるね。悪くないね」と宮本氏から評価され、ようやく開発をすすめる目途がたちました。

さらに大乱闘スマッシュブラザーズにはポケットモンスターも参戦することになりますが、これも岩田氏の人脈によるものでした。


岩田:キャラに関しては、桜井が決めて。それをもとに私が交渉しました。人脈のすべてを使って(笑)。
永田:なるほど、人脈の勝利(笑)
岩田:だからこのゲームはね、絶対ウチでしか作れない。保証します。どこかがふつうに作ったら、『ポケモン』とか入りませんから。
(「ゲームの話をしよう」エンターブレインより抜粋)



ここで岩田氏が語る人脈がどういうものだったかは、ポケットモンスターの歴史1ポケットモンスターの歴史2から知ることができます。難産だったMOTHER2を助けたことから、後にクリーチャーズを設立する石原恒和氏と知り合って、ポケモンで困っていたときも協力を申しでたことが縁となっているのです。

短い期間で作ると決めていた大乱闘スマッシュブラザーズに、著作権が分かれている任天堂のキャラクターを一挙に集められたのは、岩田氏がそれまでに築いてきた信頼関係があったからこそ実現できたことだったといえます。

※セカンドパーティの作品の著作権は、基本的に任天堂と共同で持っています。そのため片方の会社だけで自由に扱えるわけではありません。「ポケモン」については任天堂・クリーチャーズ・ゲームフリークの三社で著作権をもっていたので、より管理が厳しかったといえます。




【スマブラの完成と新たな未来】


1年ちょっとの時間をかけて、ようやく完成した大乱闘スマッシュブラザーズ。しかし、発売前の評価は芳しくありませんでした。

任天堂は独自の評価システムをもっていて、発売前にゲームを遊んだうえでの感想を集計するのですが、そこではネガティブな意見も強かったのです。「マリオとリンクが殴り合うのはどうなの?」と不快感を示す意見もありました。それだけでは済まず、スマブラは「発売中止」にまで追い込まれそうになります。

発売中止の危機をきいて、青ざめたのが任天堂の宮本茂氏でした。(任天堂キャラを使いたいという提案に対して)「無責任に、『うんいいよ』って言ったオレの立場はどーなるのって(笑)」「これは、プロデューサー人生の中で最大の汚点になるかもと思いましたね」と後に語っています。

任天堂のキャラクター同士が戦うという不快感を、結果的に和らげたのが「夢のなかで人形どうしが戦う」という設定でした。これを提案したのが、コピーライターの糸井重里氏です。MOTHER2が完成した後、岩田氏の「HAL研の顧問になってほしい」という依頼を快諾して、1995年6月からHAL研の商品づくりに関わるようになっていたのです。「大乱闘スマッシュブラザーズ」というタイトルや、スマブラで初のお披露目となったハル研のマーク「犬たまご」を考案したのも糸井氏でした。

岩田氏の強い意思もあって、大乱闘スマッシュブラザーズは1999年1月に発売にこぎつけます。しかし、スマブラの評価は雑誌のレビューでも高くありませんでした。操作が簡単なこともあり、底の浅いキャラクターゲームと捉えられていたのです。スマブラの本質である対戦の面白さや、奥深さが理解されていないと考えたディレクターの桜井政博氏は、スマブラ発売からしばらくしてスマブラ拳というホームページを立ち上げます。自らインターネットを使って、「たくさんのお客さんが充分に遊べるように」情報を発信することにしたのです。

スマブラの人気はじわじわと広がっていき、最終的には日本だけで200万本近い売り上げを記録しました。海外の人気も最初は伸び悩んでいましたが、やはり徐々に人気に火がついて、結果として世界累計600万本のロングセラーとなります。2001年には、ゲームキューブで続編大乱闘スマッシュブラザーズDXが発売されますが、このときは最初から新しいハードを引っ張る人気タイトルとして扱われることになりました。

初代スマブラが発売された1999年、HAL研は負債を完済して再建を果たします。1992年の和議申請からわずか7年目のことでした。自分の役目を終えたと思った岩田氏は、再建直後にHAL研の社長を辞任。その約1年後に、当時の任天堂社長である山内溥氏からの熱心な誘いをうけて、岩田氏は任天堂に入社します。経営企画室長として大乱闘スマッシュブラザーズDXにも関わりますが、2002年には異例の指名をうけて任天堂の新社長に就任します。

大乱闘スマッシュブラザーズは、岩田氏にとって、HAL研社長という困難な道のひとつの終着点であると同時に、新しい道の始まりともなったタイトルでした。星のカービィ→MOTHER2→ポケットモンスター→大乱闘スマッシュブラザーズは、どれも任天堂の外側で生まれた作品ですが、その過程で生まれたさまざまな「縁」が、その後の任天堂の時代を築いていったのです。


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